ブログの理由
ここでは物語を書いているわけでもなく、ただ日々の出来事や気持ちを綴っているに過ぎない。だからどうして公開する理由があるのかと思う人がいるかもしれない。私もそのことについて自分自身に問うてみた。
まず前提として、私はSNSやネットというのは、基本的に危険であり怖いものだと思っている。
つまり、ここに綴ってあることやtwitterでリツイートしたものや書いたことが、まるで自分や、その人自身を表しているように錯覚してしまう危険性があると思う。勿論、書いているのは自分自身にほかならないのだけれど、人間は生身であり、生き物なのでやはり現実で会って話して感じたその人が、その人に一番近いんだと思う。
だからネット上で言葉を吐き出すことは、プラス要素よりもマイナス要素の比重が高いのかもしれない。
さらに、もうひとつは、『言葉』から成る『心情』や『気持ち』のあやふやさだ。
ここで思い出しているのは、坂本龍一のインタビュー。
で坂本龍一は、言葉のあやふやさについて話している。
「言葉は信用できない。今言葉にしたことが、次の瞬間には変わっていることが常だからだ。だからインタビューは意味がないと思っているしインタビューに必要性も感じない。それでもこのインタビューに応じたのは、”記録として”残すことには意味を感じたからだ」と。(「」でくくっていますがこれは引用ではありません。)
確かそのような前提からこの本は始まったはずだ。
私はこの考えにとても頷いてしまった。
永遠がないのと同じで、物事は移り変わり、自分の考えなんてすぐに変わってしまう。少なくとも、私の場合は特にそうだ。環境や人や、哲学書や映画や小説や…から日々触発されている私にはすごく当てはまる。
そんなことを書くと、とても信用ができない人みたいに思われてしまうかもしれないけれど、人間の本来の機能的に、そういう部分があるはずだ。(こういう時に私がもっと科学に通じていれば、そのような機能を理論的に説明でき、内容はより示唆に富み価値のあるものになるのになあと思う。)(私に足りない部分は、そういった理論性だと最近ひしひしと感じる。これまで激論をした経験が乏しくのらりくらりしてきたので、なぜだ、それはどういう原理なのだとか詳しく突っ込まれることに弱い。)
だけれども、記録には意味がある。刻一刻と変化するものを少しでも留めておきたい。そのような気持ちがあるし、生きていくうえで出発点というか、このときはこう思っていたんだなと振り返るときに良い材料となるはずだ。
話が逸れたけれど、そういう言葉のマイナスも踏まえて、それでも、ネット上に残し公開する意味は何なのか。
それは、
私自身がアウトプットが必要だと感じたこと。日々、大学でも、映画鑑賞でも美術鑑賞でもインプットが多い。だからそろそろ、何かの形でアウトプットが必要だ。なぜならインプットと同じくらいアウトプットすることは重要だと思うから。そして私自身もアウトプットするためにインプットしている部分があるからだ。
そしてそのアウトプットの継続のため。自分のなかで留めておくよりも公開し、少しでも読んでくれる人がいるほうが続けやすいこと。(それはtumblrの絵も同様だ。)
そして公に書くということで内容を分かりやすく、理論的に書けるということだ。どうしても私は感情至上主義というか、自分の直感や気持ちを大事にし優先しがちなのでそれを抑えるという意味でも公開することが制約として機能している。
さらに、私も自分の≪記録≫として文章を残しておきたいと思っていること。
そして最後に、書くことが楽しくて、そして私の見ている風景をみんなと共有出来たら嬉しいと思っていること。
息切れ。
今日はここまで。
だいたい、このような理由が挙げられる。
…いまのところは。笑
記録することは大事だ。日々変わっていく自分や社会を見つめるのも大事だ。