人生の のこす という意識の移り変わり。
わたしは時々、自分の年齢の若さを忘れていることがある。
自分よりも年齢の高い人と関わることの方が多かった今までなので
年齢にしてはなんだか老いている気がする。(見た目とは反対です...)
ロンドンでは大学の時間が濃く、同年代の子や少し下の子たちと接するがその若さに毎度衝撃を受けている。(パーティ、パーティ、パーティなど笑)
でも衝撃を受けた自分を受けてふと考えてみたら、わたしだってほぼ同い年じゃないか。とさらに衝撃を受けてひとりツッコミをする始末。
わたしだってまだ若い、大丈夫、大丈夫。 と、
何を言ってるんだか自分でもわからなくなるが自分を鼓舞している。
大丈夫。できる。パーティで楽しめる。(年齢関係ないか。)
そして今日は若さからは程遠い人生においての時期、
のこす ということについて少し書きたい。
それは、ニューヨークに行った時のこと。
わたしはNYで3人のアーティストたちが集まる家に1週間居候させてもらった。50歳に近い日本人のアーティストが1人、それに40代の女性のアメリカ人、メキシコ人である。
その人たちと話をしていて、教わったことがある。
だいたい45歳を過ぎてから、
人生においてこれから何をのこすことができるか?と考え始めるようになるという。
それまではやりたいこと、実現したいことに向かって迷いながらもひたすら進む時期だったけれども、45を過ぎるとふと残りの人生について考え始める と。それは自分の両親の衰えや、そして自分自身の体力の衰えなどきっかけは様々にある。
確かに、90歳まで生きるとしても45歳はその半分。
体力は落ちていくから、これまでと同じ要領では物事を進めていけなくなるかもしれない。とにかく45歳を過ぎて、進むというよりはこれから何を残せるだろう?という思いに変わってきたとその人は言っていた。
そのことはわたしにとって大きな示唆だった。
もちろん十人十色の生き方がある。それは痛いほどロンドンで学んだことの一つ。
だから必ずしもみんなが45歳になって変わるのではないけれども、早かれ遅かれ人生においてそのような時がくるのは確かなことであると思う。
そういえば NYのグッゲンハイム美術館で見たクリントという女性のアーティストも
彼女の母親との死別をきっかけにし、より"independent"な絵を描くようにになったという。("independent"の良い訳し方がわからないのでそのままにします。)
それは彼女の中での大きな変化であり、死を経験し意識したことで のこす という時期に移り変わったということだろう。
何をのこすか と自分が思う時まで、
わたしはどれだけ人生を楽しみ自分の中での大切な何かを成し遂げることができるだろうか。
人生を長く生きている人と話すのが本当に好きだ。
生きることについて知りたい。人間について知りたい。
一人一人が経験に基づいた哲学を持っているものだ。それを知るのは本当に楽しい。
そして のこす ということ。
それは不思議に切なく ノスタルジーな雰囲気を纏っていて、
わたしにはとても魅力的に映る。
ちなみに、ロンドンでのバイト先の日本料理屋の70歳のおじいちゃんに言われた
『22歳なんてまだ赤ちゃんだよ』も忘れられない。
50年も長く生きる人に言われたらそりゃあ何も言い返せないよね。
そう、のこす ことはわたしにとってはまだまだ先のこと。
精進致します。